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「風流庵」ブログ開設のお知らせ

 投稿者:がんじい  投稿日:2007年11月 9日(金)23時29分26秒
  07年2月より産経「イザ!」に「風流庵」ブログを開設しておりますので、お立ち寄りください。
http://ganjii.iza.ne.jp/blog/

ここでは、新しいブログを開設したり、ニュースにコメントを付けたり、ブログにトラックバックを付けたりもできますので、ご参加ください。
 
 

お知らせ

 投稿者:管理人  投稿日:2006年 1月17日(火)01時05分46秒
  本委員会の管理人は本年(2006年)、「就労の頚木」から42年ぶりに解放されました。
娑婆の空気は例えようもなく、美味いです。
これからは精々、更新に励みますので、よろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。
なお、下記の共同サイトも偶には訪問してやってください。

■ 国民投票センター
http://www.nvcenter.net/
■ 文藝春秋採点簿
http://www.geocities.jp/bunshunjr/
■ NGO/NPO監視新聞
http://www.geocities.jp/ngpo_watcher/
 

Re:金次郎と株

 投稿者:がんじい  投稿日:2002年 4月14日(日)13時10分40秒
   柳澤伯夫金融担当大臣 殿

 小泉内閣メールマガジン第41号「金次郎と株」を拝見。

 「金は活かして使うもの」という古人の伝えは、万人の暮らしの基本に据えるべき正しい思想と、私は考えます。おそらく貴殿もそう仰りたいのでしょう。ならば、御自身の考えとして堂々と語りましょう。金融大臣を5期も務める東大卒の「アジアの星」が、何故に先例に肖(あやか)る形でしかモノを言えないのか。御自身の信念の弱さを吐露しているようであり、それこそ今日の政治家不信の原因であります。いま少し、小泉首相の覚悟に学んでください。

 さて、女子学生のレポートは極めて真っ当であり、大いに奨励するべきであります。ただし、これにまつわる貴殿の見解を2点修正しておきます。

 ■その1「元本の回収を当てにしない投資」


 株式投資「自由経済市場における創造活動に万人が参加できる手段の一つ」と捉えます。本来ならば万人がそれぞれ起業するべきところ、そうもいかない人々がいる。そういう人々が、次善の手段として株式投資を選択する。その際、参加する覚悟が何よりも重要。不純な覚悟で参加した人々は、その時点で既に敗北したと割り切っておくべきでしょう。正しい覚悟は次のとおりです。
 
 見渡せば、私の思いを企業化している先人がここにいる。この企業を私の分身と定めたい。「推譲」の一部をここに捧げたい。親が子育てに見返りを期待しないのと同じように、私もこの企業に見返りを期待しない。わが子の成長ドラマを見守る観劇チケットを手にしただけで、私は十分報われている。この上、まかり間違って配当や元本が還元されることがあったら、それはもう、天の恵みと感謝しなければなるまい、と。

 ■その2「公金の投入」

 自由経済市場における創造活動に参加する資格は、「おのれの責任において参加する覚悟を決めた者」すなわち民間人に限定されます。したがって、賠償責任を誰も負わない「公金の投入」は間違った政策です。そもそも「政府の任務」とは何か。言うまでもなく「公務」です。「商売」ではない。「商売」は神聖にして侵すべからざる民業の縄張り。たとえそこがいかなる苦境にあろうとも、です。

 政府の任務は「公務に従事して国民生活の安定を図る」ことであって、「商売に参加して国民生活の安定を図る」ことではない。自由経済市場に公金を投入することは、自由経済市場を免責資金で以って撹乱することにほかならず、天にツバする行為であると悟らねばなりません。

 以上が「金次郎と株」にまつわる、自由経済市場における創造活動の本筋です。時代の潮流もゆっくりと、この本筋に向かって行くと、私は見ています。
 

金次郎と株

 投稿者:金融担当大臣 柳澤伯夫  投稿日:2002年 4月14日(日)12時53分37秒
  小泉内閣メールマガジン 第41号 =============== 2002/04/04

[大臣のほんねとーく]

● 金次郎と株(金融担当大臣 柳澤伯夫)

 二宮尊徳、幼名金次郎のことは、この頃の若い人は多分知らないかも知れませんね。

 昭和の初めから終戦にかけては、日本のほとんどの小学校では、背中に薪木を背負い、読書をしながら歩く金次郎の銅像が校門の近くに立っていました。江戸時代の末期、今の神奈川県小田原在の農家に生れ、幼くして両親と家産を失いながら、勤労と勉学に精を出し、見事に家を再興した金次郎は、当時の少年の模範と考えられていたのでした。いや、銅像の姿は少年少女向けでしたが、尊徳の思想(「報徳思想」と呼ばれます)は、当時の大人にも「勤倹・貯蓄の勧め」として広く知られていたものです。

 ところで、みなさんは、わが国には約1,400兆円にものぼる個人金融資産があることをご存知でしょう。もちろん中味は、いろいろです。年金や保険の掛け金も入っているので、全部が今すぐ自分の自由になるものではありません。その他、株や投資信託も入っていますし、いうまでもなく、預貯金が入っています。

 問題は、どういう種類の金融資産が全体の中でどういう割合になっているかです。それが国によって随分違っているのです。先にアメリカの例をいいますと、株や投信や社債などの証券でもっている(「証券投資」と呼びます)割合が全体の5割以上にもなっていて、預貯金はわずかに1割程度となっています。それに対してわが日本はどうなっているか。銀行や郵便局の預貯金が半分以上を占めていて、証券投資は1割強という状況です。まるで逆なのです。

 この割合をみて、多くの人は二宮金次郎の昔からあった日本人の道徳が影響しているにちがいないという見方をします。例えば、宮澤元首相がそういう意見を述べておられていたのを聞いたことがあります。

 しかし私はこの頃、二宮尊徳翁の報徳思想が説いているところは、預貯金よりもむしろ投資の勧めではないかと考えています。

 報徳思想の中核は、「勤労・分度・推譲」だといわれます。まず一生懸命働いて収入を得ます。収入は全部つかってしまわず、限度(「分度」と呼びます)をわきまえてつかいます。そして残りは、寄付すること(「推譲」と呼びます)だとされます。推譲を受けた人が事業に成功したときには、必ずお礼をすることになろうと思います。そう考えれば、推譲は元本の回収を当てにしない「投資」だと考えることもできるし、お礼を「配当」と見ることができます。

 確かに、われわれ日本人には、その日暮らしではなく、今の消費を節約して、貯蓄する心が備わっています。問題はその先で、貯蓄をどこへ振り向けるかです。日本人には、尊徳翁にみるように、元々「投資」をする思想と伝統があったことをもう一度ふりかえってみようというのが私が今日、みなさんへ呼びかけたい点です。

 伝統は生きていました! 先日ある新聞社が中学、高校、大学の学生たちに株式投資の模擬練習をしてもらい、そのときどんな考え方で投資をしたかをリポートしてもらいました。するとある女学生がこうリポートしました。
「これから自分達の投資は、自分達の役に立つ企業を育てるために、そういう先に投資しなければならない。」「自分が欲しいものを作っている会社に投資して、その会社が引き続きその製品を、さらにいいものを作ってくれるように投資したい。」

 私はこのリポートを読んで、こんなすばらしい投資の心を若い人は持っているんだ、これは大切にしなきゃいかんと思いました。株式投資というととかく、売ったり買ったりしているうちに、結局損をしてしまうコワイものだというイメージがあります。そうじゃない。さっきの女学生がいうように、自分たちが伸びてほしいと思う企業を応援するために推譲して、ちゃんと配当が返ってくる。そういう株式市場をこれからぜひ作っていきたいと私は考えています。
 

民業と政府と国民と国家(5) 

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 8月21日(火)12時20分58秒
  平均株価が1万2千円を割るのが怖いから、景気をなんとかして欲しいだって?
企業が借金を返せないから、景気をなんとかして欲しいだって?
サラリーマンが住宅ローンを返せないから、景気をなんとかして欲しいだって?
倒産で失業者が巷(ちまた)に溢れるから、景気をなんとかして欲しいだって?
日本経済が破綻寸前だって?日本発世界恐慌が怖いだって?
小泉首相、どうしてくれる、だって?

バカ言っちゃあ、いけないヨ。好況もあれば不況もある。好況も不況も民業が作るものであってね。政府に作らせたら、必ず後世に禍根を残す。それが「経済の鉄則」なの。

民業は建国以来、片時も休まず経済活動を続けて国民生活と政府財政を賄って来た。いつの世も、民業が国民と政府を「食わせて」来た。その民業が、国民と政府に泣きついてどうすんの?いい年こいた「稼ぎ人(かせぎにん)」 たちが、雁首(がんくび)揃えて「オッパイ欲しい」なんて、情けなくない?

平均株価5万円の年もあれば、5千円の年もある。不況が百年続くこともある。それで、当たり前なのであってね。それが「経済」というものなの。

いつの世も、経済を知る企業の株価は適正値を付けているし、経済を知る人間は借りた金を返している。経済を知る失業者は選り好みせず、必ず職を見つけ出す。ぼくちんも、その一人。いつの世も、経済を知る者は、何が起きても、うろたえることがないし、「恐慌」といういい加減な概念など眼中にない。

われわれ民業がやるべきことは、政府の構造改革であってね。「生活保護」でメシ食ってる議員と役人たちが巣食う政府に、景気をなんとかして欲しいと泣きつくのは、まったくもってバカバカしいことなのよ。
 

民業と政府と国民と国家(4)

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 8月15日(水)23時35分20秒
  国家の歴史は、すなわち、政府が金を欲しがる歴史であった。政府はいつの世も税金を増やしたがった。増税策に限界が見えると、自ら商売に手を出して稼ごうとした。政府の商売はどれもこれも、天下り人種の巣窟となって、赤字を垂れ流した。

議員たちも役人たちも、国家財政の損失を私有財産で弁償する義務がないため、ぜんぜん気楽なものであった。来る年も来る年も、赤字国債のカラ手形を振り出して決算書の帳尻を合わせた。積もり積もった巨額負債は、これを後世に転嫁して知らん振りを決め込んだ。

政府の商売の中で、ギャンブルだけは例外だった。法律によって民業を締め出す独占事業であったため、面白いほど儲かった。外部に漏れたらヤバイので、役員も職員もパートさんも、高額給与を内緒にし続けた。

政府はいつの世も金を欲しがったが、議員も役人も「公務の境界」を知らないために、徴税の最適規模がGNPの1割なのか3割なのか、誰も知らなかった。政府の「経済活動」を疑問に思う者は1人もいなかった。自由経済市場が、実は民業の「神聖な縄張り」であることを、知る由もなかった。
 

民業と政府と国民と国家(3) 

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 8月 5日(日)18時08分38秒
  世界の国々は、これを、独裁主義、専制主義、社会主義、共産主義、民主主義のいずれかに分類することができるが、その成長過程を見ると、いずれも先生権利者組織後生権利者組織の権利の相克によってその都度改修工事を重ねて来たために、屋台骨はすでに傾いている。

ゼロベースから国家のイメージを固め、基本設計図面を描き、詳細設計図面を作成し、着工し、竣工するという手順を踏んで来た国は一つもない。それゆえ、どこの国にも、国家基準は何なのか国家のオーナーは誰なのか政府の任務は何なのかという最も重要なコンセプト(概念)が欠如している。

世の中の学者や評論家たちは国家の歴史を政治家たちに紐解いて見せることによってメシ食っているが、ゼロベースから国家を構想する場面においては、過去の歴史事実はもとより、現在の事実すら役に立たないと認識しておこう。
 

民業と政府と国民と国家(2)

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 8月 5日(日)05時00分41秒
  国家のオーナーたる民業は、従属機関たる政府を作り、議員に命じて法律を作らせ、「国民」と「国家」の定義を終えた後、全体を眺めて「満足である」と宣言した。夜が来て、また朝となった。

国家のオーナーたる民業は、次に、「民業」と「政府」の役割を以下の如く定義した。

民業の目的=経済活動に従事して国民生活と政府財政を賄う
政府の目的=公務に従事して国民生活の安定を図る
民業の任務=商売
政府の任務=公務
民業の領域=自由経済市場(民間需要)
政府の領域=立法・司法・行政(公共需要)

国家生存の唯一基盤は民業にあり、その民業生存の唯一基盤は自由経済市場にある。民業はそこで商売に従事して国民所得を稼ぎ出して国民生活を賄うとともに、税金を拠出して政府の財政を賄う。政府は預かった税金の中から、民業が定めた給与を頂戴して、残りを公務に振り当てる。これが「民業と政府の基本的な関係」となった。
 

民業と政府と国民と国家(1)

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 8月 4日(土)15時47分48秒
  その昔、人が地上に住み着いた頃、議会はなく、裁判所はなく、役所はなく、政府はなく、それゆえ、税金もなかった。税金に寄生する議員も裁判官も役人もいなかった。

漁師は魚をとり、狩人は鳥や獣を追い、農夫は畑を耕し、牧童は羊を飼い、樵(きこり)は木を切り、大工は家を作り、鍛冶屋(かじや)は鉄を打ち、医者は患者を治し、商人は物やサービスを交換した。人はみな生業(なりわい)を持ち、体を張って1日の糧(かて)を稼ぎ、家族を養った。親は時々転んだが、すぐまた大地に足を踏みしめて立とうとした。子どもはそれを見て育った。

人はみな、おのれの生活はおのれが賄(まかな)うものと覚悟して生きた。生業者たちはそれぞれ自立して、自然に発生する需要に応じて互いに発注と受注を交わしていた。納税という概念はなく、特定の組織に税金を納めた後おもむろに分配する制度もなく、それゆえ分配受注に群がる業者もなかった。小規模ながら「自由経済市場」はそれなりに安定し、成長していた。

そのうち人口が増えてくると、盗賊を取り締まれ、外敵を叩け、水火震災に備えろ、田畑に水を引け、道を作れ、橋をかけろ、通貨を統一しろ、法律を作れ等の「公共需要」が発生した。

そこで生業者たちは稼ぎに応じて税金を拠出し、議員と裁判官と役人を雇用して、公共需要を処理させることにした。議員には立法を、裁判官には司法を、役人には行政を担当させることにした。

生業者たちは、彼らの仕事を「公務」、彼らの身分を「公務員」、彼らの組織を「政府」と名付けた。そして彼らと区別するために、自らの仕事を「商売」、自らの身分を「民業者」、自らの組織を「民業」と名付けた。

民業は議員に命じて法律を作らせて、その法律に強制力を持たせて、自らもそれに従うことにした。そして、強制力を承諾する人々を「国民」と名付け、強制力の及ぶ領域を「国家」と名付けた。

かくして、民業は「国家のオーナー」として君臨し、政府を使役して国家の運営に従事せしめることとなった。政府は民業の「従属機関」であった。
 

憲法は盲腸みたいなもんだ

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 5月 6日(日)18時04分38秒
  小泉純ちゃんが首相公選実施を目的として憲法改正に取り組むと宣言した。神棚に祭り上げて50余年。ススだらけになった憲法のご神体を、とにかくまな板の上に載せて料理しようというわけだ。

憲法は国民と国家の利害関係を規定する公定ルールである。それゆえ、新しい憲法を考えることは、有権者9946万人分の1人にとっても、面白いはずだ。それだけではない。赤の他人に勝手なルールを作られて、自分の生活をあれこれ拘束されることになれば、こんな不愉快なことはない。自分が損をしないために、ここはどちら様も、憲法料理に一口噛んでおく方が利口である。

とは言え、憲法を料理するにはどんなスタンスで取り組めばいいのだろう。

いま、私の目の前のまな板に置かれた新しい憲法ネタは、一匹のアジのようにも見えるが、巨大なマグロのようにも見える。アジなら料理も楽しいが、マグロとなると、とてもじゃないが手に負えない。だからといって、敬遠することもない。要は「たかが憲法、されど憲法」なのだ。

「たかが憲法」 とは、こういうことだ。わが家に家訓はない。家訓をことさら紙切れに書いて床の間に貼り付けて威張る者もひれ伏す者もなく、わが家は昔から自由にのびのびと回転している。国家も同じことだ。イギリスやスウェーデンやニュージーランドは憲法などという仰々(ぎょうぎょう)しいものを嫌って採用せず、国民生活に深く根ざした一連の法律でしっかり国を支えている。

「されど憲法」 とは、こういうことだ。世界の独立国192カ国のうち178カ国が猫も杓子(しゃくし)も「右へ倣(なら)え」で憲法を採用してきた。だから、わが国も、というわけである。それもよかろう。だが、紙切れに味噌も糞も欲張って盛り込むのは愚の骨頂である。モーゼの「十戒」や聖徳太子の「十七条憲法」や明治天皇の「五箇条のご誓文」程度に、せいぜい骨格だけをサラサラと書き込んで、細かい肉付けは下位法律に委ねるのが「大人の憲法」というものである。

いずれにしろ、憲法などというものは、あってもなくてもいい盲腸みたいなものと知れば、料理するのも気が楽だ。アジを3枚に下ろすくらいの鼻歌気分で捌(さば)いてみる。鮮魚はすぐに腐敗するが、憲法ネタは日持ちがいいので、2~3年くらいかけるつもりで、有権者各位が自己流の調理を楽しんでみると良い。
 

衆愚政治と多数決(3)

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 5月 5日(土)23時17分16秒
  学者たちは「多数決が正しい」「いや、少数意見が正しい」といって、それぞれが自説に好都合な歴史データを寄せ集めて宣伝し合うが、彼らの学術論文はいつも徒労に終わる。なぜなら、時代を超えて国民に強制するべき「正しい採決方法」など、歴史上の何処にもないし、必要でもないからである。

誰かが「橋を架けよう」と言い出した時、みんなの選択肢は「とりあえず見送る」か「とりあえず審議する」か、どちらかしかない。審議に加わる人々がどんどん増えて、賛成だ、反対だと盛り上がってくると、やがて「橋を架けるか架けないか、採決しよう」となる。そして、みんなが納得できる採決方法は「とりあえず多数決しかない」ことに気付く。

問題はここからである。「全員一致」でいくか、「3分の2」でいくか、「過半数」でいくか。

「全員一致」は採決までの道のりが難儀である。多数の人々が少数者のエゴに振り回されて、いつまでたっても採決できない。苦労を重ねた末に、ようやく全員一致で可決なり否決なり結論が出て「めでたしめでたし」となる。反面、ずうっと後になってその決議が現実にそぐわなくなった時、「全員納得づくで決めた」という重たい事実が足枷(あしかせ)になって、改革をいつまでもズルズルと怠(おこた)らせる。

「3分の2」も、程度の違いはあるが、採決までの道のりが遠く、また採決後の改革を怠(おこた)らせる。当代で決定した浅知恵を後代にまで持ち越して呪縛することになる。憲法が良い例である。

有史以来、宇宙は拡散し収縮しまた拡散する。万物は流転し、往く川の流れは絶えずして常に元の水に在らざるなり。人の「意志(will)」「知識(knowledge)」も、それによって「とりあえず構築する合意(consensus)」も、日々に脱皮を繰り返しながら進化するのであるからして、必ずや他日の改革を視野に入れておかねばならない。

「過半数」は採決に至る過程を短くするし、また、採決後の改革も柔軟に許容する。それゆえ、国会において法律を決する場合も「過半数」がベストである。

確かに、今年367対365で可決した法律を、来年2人が心変わりして否決し、再来年また別の2人が考え直して可決、ということになれば収拾がつかない、ということはあろう。だからこそ、すべて法律は有効期限付きの時限立法にしなければならない。憲法も条約も例外ではない。

有効期限が過ぎれば、たった2人の力でどんな法律でも改革することができる。それゆえ、代議士諸君はあらゆる法律について、利害を超え、保身を超え、党利を超えて、おのれの意志を明確にし、合意を蓄積していく努力をせざるを得ない。「過半数」は代議士諸君一人一人に日常弛(たゆ)みない合意交換活動を強制する。ここにこそ「過半数の真髄」があるのだ。
 

衆愚政治と多数決(2)

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 4月14日(土)14時32分3秒
  第1部・政府と民業の境界線(1)(1月2日付け)で、「その昔、人が地上に住み着いた頃、政府はなかった。その後、人口が増えて人々の共通ニーズ(公共需要)が発生したため、政府を作って処理させることにした」と述べた。

人々が「俺たちのことは俺たちでやるから公務員は要らないよ」と言えば、今でも政府は要らないのだが、現実に公共需要が出てくるので、やむを得ず対応策を決定して実行することになる。みんなから金を集めてみんなで決めて金を突っ込むことになる。「衆議に計る」ことになる。

「衆議に計る」手順は2つ。「審議」「採決」である。「審議」は、みんなが自分の利害に照らして賛否を吟味すること。「採決」は、みんなが自分の利害に照らして賛否の決断を下すことである。

「審議」の期間は2つ。「小田原評定」を延々と続けるか、「石原(慎太郎)評定」でいくか。「石原評定」は決断が速い。与党議員たちは、みんなに早く金をばら撒いていい顔したいので「石原評定」でいく。野党議員たちは、テレビカメラの前で延々と質問を続けて月光仮面を気取りたいので「小田原評定」でいく。

そんな輩(やから)に付き合いきれない与党議員たちが痺(しび)れをきらせて採決に踏み切ると、野党雀(すずめ)たちが「多数の横暴」と喚(わめ)き散らしてスクラムを組んで抵抗して見せる。毎度お馴染(なじ)みのサル芝居であるが、有権者たちは「少数の横暴」であることを知っている。みんなで決断を下すには多数決しかないことを知っている。

「みんなで何かを決める」ということは、普段から地道なPRを続けてみんなの賛否支持を蓄積して採決に臨む、ということである。有権者たちは地道な努力を続けてきた者を与党に任命し、地道な努力の足りない者を野党に任命するのである。
 

衆愚政治と多数決(1)

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 4月10日(火)01時03分1秒
  「有権者たちに重要政策を採決させたら、とんでもないことになるので、やめとけ、やめとけ」という輩(やから)がいる。いわゆる「衆愚政治」を御心配くださる「分別くさい方々(かたがた)」である。そこで、本日は、こういう方々にお黙りいただく妙薬を2点処方しておこう。

第1の処方は、こう言ってやることである。「あなたはとても分別あるお方とお聞きしています。ところで、あなたの身内の方やご近所の方やご親友は、さぞかし分別のない方ばかりなのでしょうね?」

第2の処方は、こう言ってやることである。「あなたは一流ドライバーとお聞きしています。ところで、あなたの身内の方やご近所の方やご親友は、さぞかし危険なドライバーばかりなのでしょうね?」

免許取りたての頃はみんな下手くそと相場が決まっている。その下手くそが「運転するから上達する」のである。「運転するから責任を自覚する」のである。「運転させないからいつまでも下手くそ」なのである。「運転させないからいつまでも責任を自覚しない」のである。

しかるに、政府は「素人は選挙でプロを選べ。政策の採決はプロに任せよ」と洗脳して、有権者を未開人種に育ててきた。そしてまた、「採決の結果生じる負債に対してプロは弁償の義務を負わない」と洗脳して、議員たちを野蛮人種に育ててきた。未開人種の政治システムは、かくもお粗末なものである。
 

創造活動

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 2月11日(日)15時37分37秒
  人間の脳みそは常に創造(クリエイト)する。それが生きている証(あかし)である。老若男女を問わず、身の回りのことや社会のことや世界のことを毎日創造し続ける。

食卓や棚やベッドや装飾を変える時は室内のことしか考えないが、家を改修したくなった時は、たとえそれが部分改修であっても、必ず古い図面を引っ張り出して家全体の骨組みと一つずつ結合して新しい青写真を書き起こす。

青写真の作成作業は設計士に委託するとしても、その前にどの部分をどのように改修したいか、オーナー個人がおのれのイメージをしっかり固めてスケッチを書いて伝えなければ、お話にならないし、設計士もお手上げである。

家全体のイメージをおのれ自身できちんと描いてみる。その中に改修したい部分のイメージをしっかりと位置付ける。それがオーナーたる者の最低限の創造作業であり、この作業を怠る者は家の改修を言い出す資格がないし、相手にする必要もない。

国家についても同じことである。あれやこれや目先の部分を論(あげつら)う者は室内片隅の手入れしか考えていないが、いやしくも国家の改修工事を望む者は部分と全体のリレーションシップ(関連付け)をクリアしない限り、政策対象外となる。有権者、議員、役人を問わず、個人の脳みそのクリエイティブな活動が要求される所以(ゆえん)である。

わが国のインターネットはこれから5年のうちに爆発的に普及する。それと比例して政治にコミットする人口も確実に増える。一人一人がおのれの意志を世界に向けて発信する自分専用メディアをわずかな費用で手に入れるのだ。

人々が時間と空間の束縛から解放されて、ワンツーワン(一人対一人)、ワンツーホール(一人対60億人)の意志交換チャンネルが開通する。これを「コミュニケーション革命」と呼ぶ。ビジネスマンは既にこのチャンネルを使って国際ビジネスを展開しているが、これがさらに次のステップにつながることには気付いていない。

いずれ48億人の有権者たちは、このコミュニケーション・ツールが、地域や国や世界の政策を決定する際の合意形成手段として使えることに気付くだろう。ここにおいて初めて、悠久の歴史の潮流に乗せて主が人類に贈り給う祝福の「メディア」の真意が理解されるのである。

http://www.nvcenter.net

 

主宰者プロフィール

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 1月 3日(水)23時18分5秒
  ■略歴=1941年長崎県対馬新聞社長次男に生まれる。64年立教大学文学部英米文学科卒業。レストランボーイ、新聞配達、マイクロ写真助手、雑誌編集、新聞記者を経て73年より建築関連企業営業職。99年3月Webサイト国民投票センターを開設。2000年2月前記企業を退職。2000年12月~2001年4月まで毎日、NEC総研ビジネススクール稲城校で「中高年IT実務」特訓受講中。

■関心事=哲学・科学・信仰・音楽・文学・法律・政治・経済。趣味=役者。血液型=AB型。星座=天秤座。

■自宅・事務所=〒112-0001 東京都文京区白山5-23-12-403 電話=03-3946-6498
 

政府の「商売」を禁止せよ―市場は民業の縄張りだ

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 1月 2日(火)00時52分28秒
   【要旨】

 民業は自由経済市場で「商売」に従事して所得を稼ぎ出して国民生活を賄うとともに、税金を拠出して政府の財政を賄う。政府は預かった税金の中からおのれの食い扶持を頂戴して、残りを「公務」に振り当てる。これが政府と民業の基本的な関係である。

 しかるに、政府は公務と商売の見境なく市場で生じるあらゆる需要に「公共需要」の名目をつけて公共投資を行う。すると民業は公共事業に群がって受注を競い合う。そのうち、産業構造が公共事業依存体質に変貌し、ついには公共事業がなければ経済が成り立たないほど虚弱体質になる。これでは民業の自立も繁栄もない。

 政府を運営する議員と役人は法律によって「生活保護」を受ける身分であって自立収入基盤を持たず、おのれが采配を振る公務資金収支損失に対して弁償責任を負わない。「他人の金を勝手にバラ撒いて責任は負わないが、手当てだけはしっかりいただく」。このような無責任集団にこのまま国を牛耳らせておいては後世に申し訳ない。

 そこで政府の目的と任務と領域を明確にして「公務」のケジメをつけさせる。合わせて民業の目的と任務と領域を明確にして民業の復権を図る。

 本稿は5部で構成する。

 1.政府と民業の境界線
 2.政府が民業を侵略する
 3.政府の「商売」を禁止する
 4.民業復権の論理
 5.国家のオーナーが舵を取る

 第1部では、政府誕生の経緯をスケッチして国家の構図を概観した上で、政府の任務を「公務」、民業の任務を「商売」と区分して、それぞれの目的と領域を定める。
 第2部では、公共事業を見境なく拡大して民業の依存体質を助長した挙句あげく、民間市場まで食い散らす政府の不良行為を糾弾する。
 第3部では、政府の不良行為を法律で阻止するため、公務資金を市場に出資・投資・融資・預金することを禁止する「民業侵犯禁止法案」を提案する。
 第4部では、公務資金の市場投入を禁止することによって年間45兆円が民業の手元に戻り、自立経済基盤が固まってホンモノの景気が浮上することを論証する。
 第5部では、建国以来片時も休まず経済活動に従事して国民生活を賄ってきた民業の実績を評価した上で、国家のオーナーたる民業が政府を監督する責任を負うと結論する。
 

第1部 政府と民業の境界線(1)

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 1月 2日(火)00時50分30秒
   日本は法治国家である。それゆえ政府の仕事はすべて法律に基いて行っているはずである。ところが実は、政府が何をするべきか、仕事の範囲はどこからどこまでか、何をしてはならないか、憲法にも行政法にも財政法にも規定がない。政府の目的や任務や領域を定めていないのだ。このため政府はおのれの任務の境界を知らぬまま商売に手を出して民業の縄張りを侵略する。民業もまた被害の大きさを知らぬまま黙々と商売に励んで納税する。なんとも、お粗末な構図である。

 法律に明文の規定がないとはいえ、政府の仕事が「公務」であることに変わりはない。したがって、政府が公務を逸脱して「商売」していれば、それは越権行為として禁止しなければならない。そこで、公務の領域がどこからどこまでか本稿で明らかにするが、その前に政府誕生のモデルケースを一筆スケッチしておこう。

 その昔、人が地上に住み着いた頃、議会はなく、裁判所はなく、役所はなく、政府はなく、それゆえ、税金もなかった。税金に寄生する議員も裁判官も役人もいなかった。漁師は魚をとり、狩人は鳥や獣を追い、農夫は畑を耕し、牧童は羊を飼い、樵(きこり)は木を切り、大工は家を作り、鍛冶屋(かじや)は鉄を打ち、医者は患者を治し、商人は物やサービスを交換した。

 人はみな生業(なりわい)を持ち、体を張って1日の糧(かて)を稼ぎ、家族を養った。親は時々転んだが、すぐまた大地に足を踏みしめて立とうとした。子どもはそれを見て育った。人はみな、おのれの生活はおのれが賄(まかな)うものと覚悟して生きた。

 生業者たちはそれぞれ自立して、自然に発生する需要に応じて互いに発注と受注を交わしていた。納税という概念はなく、特定の組織に税金を納めた後おもむろに分配する制度もなく、それゆえ分配受注に群がる業者もなかった。小規模ながら自由経済市場はそれなりに安定し、成長していた。

 そのうち人口が増えてくると、盗賊を取り締まれ、外敵を叩け、水火震災に備えろ、田畑に水を引け、道を作れ、橋をかけろ、通貨を統一しろ、法律を作れ等の「公共需要」が発生した。そこで生業者たちは稼ぎに応じて税金を拠出し、議員と裁判官と役人を雇用して、公共需要を処理させることにした。議員には立法を、裁判官には司法を、役人には行政を担当させることにした。
 

第1部 政府と民業の境界線(2)

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 1月 2日(火)00時48分53秒
   生業者たちは、彼らの仕事を「公務」、彼らの身分を「公務員」、彼らの組織を「政府」と名付けた。そして彼らと区別するために、自らの仕事を「商売」、自らの身分を「民業者」、自らの組織を「民業」と名付けた。また、需要を便宜上「公共需要」と「民間需要」という概念で区分し、前者の事業発注権を政府に与えることにした。

 民業は議員に命じて法律を作らせて、その法律に強制力を持たせて、自らもそれに従うことにした。そして、強制力を承諾する人々を「国民」と名付け、強制力の及ぶ領域を「国家」と名付けた。かくして、民業は国家のオーナーとして君臨し、政府を使役して国家の運営に従事せしめることとなった。政府は民業の従属機関であった。

 以上は、政府誕生のモデルケースを一筆啓上したスケッチなので、これと一々の歴史事実を照合する価値はない。しかしながら、「商売」と「公務」、「民業者」と「公務員」、「民業」と「政府」、「民間需要」と「公共需要」、それに「国民」と「国家」という重要ファクターの本質を明快に位置付けているので、誰が見ても国家の構図を一目で把握できる利点はあろう。

 これらのファクターで眺めれば現代国家の構図もわかりやすい。たとえば、国民と国家に対して誰が最終責任をとるか。それは議員でも裁判官でも役人でも政府でもない。税金に寄生する公務員に責任をとる資格はない。かといって「国民」でもない。乳幼児や生徒・学生や専業主婦や老人や無職者も国民ではあるが、責任をとれといわれてもとりようがない。結局、商売に従事して所得を稼ぎ出す民業者が最終責任をとることがわかる。

 主人は家族を養うゆえに一家のオーナーであり、民業は国民生活を賄うゆえに国家のオーナーである。首相や政府が倒れても直ぐに補充できるが、民業が倒れたら国家と国民生活が破綻することからも、民業が国家のオーナーであることは明白である。

 そこで、民業と政府両者の間に境界線を引いてそれぞれの役割を確認しておこう。

 民業の目的=経済活動に従事して国民生活と政府財政を賄う
 政府の目的=公務に従事して国民生活の安定を図る
 民業の任務=商売
 政府の任務=公務
 民業の領域=自由経済市場(民間需要)
 政府の領域=立法・司法・行政(公共需要)

 国家生存の唯一基盤は民業にあるが、その民業生存の唯一基盤は自由経済市場にある。民業はここで商売に従事して所得を稼ぎ出して国民生活を賄うとともに、税金を拠出して政府の財政を賄う。政府は預かった税金の中からおのれの食い扶持を頂戴して、残りを公務に振り当てる。これが政府と民業の基本的な関係である。

 民業は商売を行う義務と権利がある。また、民業は政府に公務を行う義務と権利を授けている。ここから、「民業は政府に商売を行う義務も権利も授けていない」という事実が浮かび上がってくる。国家のオーナーたる民業が従属機関たる政府に商売しろと命じたことは一度もない。これが重要なポイントである。
 

第2部 政府が民業を侵略する(1)

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 1月 2日(火)00時44分27秒
   しかるに、今日、国民と国家に対して指揮権を振るうのは誰かと見れば、それは議員と役人で組織する政府である。オーナーの財布に寄生する下々(しもじも)の用人たちがオーナーに対して指揮権を振るう。この逆転現象はいったいどこから生じるのか。その要因をチェックしておこう。

 人口が少ない頃はゆとりの時代だった。民業者は常に国家と一体で、しばしば寄り集まっては会議を開き、互いの意志を集約して政府を監督していた。ところが、人口が増えると競争の時代になり、民業者は商売のことで手一杯になり、国家のことを構っている余裕がなくなった。たまに寄り集まってみても、参加者が多過ぎて互いの意志を集約することさえ困難になった。こうして人口が増えれば増えるほど民業者の意志は分散し、政府を監督する手段を失っていった。

 一方、公務員は食い扶持の心配がないので競争する必要がなく、安心して公務に専念できた。暇さえあれば会議を開いて互いの意志を集約し、ますます結束を固めるようになった。おまけに人口が増えれば増えるほど手元に集まる税金は巨額になり、「公共需要」に応えるための公共事業発注額がどんどん膨らんだ。

 すると、自由経済市場に異変が起きた。これまで民間需要を追っていた民業大手が一斉に公共需要に向けて商売の舵を切ったのである。彼らは公共事業に群がって互いに受注を競い合うようになった。そして産業構造が次第に公共事業依存体質に変貌し、ついには公共事業がなければ経済が成り立たないほど虚弱体質になった。かつて大地に足を踏みしめて自立していた民業の面影はなく、議員や役人にもみ手で擦り寄って仕事を分けてもらうさもしい商人に自らなり下がっていった。

 その中で政府要人とつながって大口受注に成功して財をなす業者は「豪商」と呼ばれて尊敬の的となった。受注にあぶれた弱小民業は豪商の下に群がって下請けの仕事にありついた。かくして政府―豪商―弱小民業の産業構造が出来上がり、政府は公共事業発注の元締めとして民業を配下に治めることとなった。
 

第2部 政府が民業を侵略する(2)

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 1月 2日(火)00時41分24秒
   政府と民業の地位が逆転した事情は概ね以上のとおりだが、前節で触れたように、政府は一度も「公務」の領域である公共需要の境界を見定めた経験がない。それゆえ政府はおのれの分際を知らぬまま、ズルズルと民間需要をも攻略して手広く「商売」を展開することになる。
 
 証券業、金融業、保険業、製造業、通信業はじめ、電力、石油、ガス、運輸、輸送、道路、建築、不動産、観光、ギャンブル等あらゆる法人に「出資」「投資」して「配当」を稼ぎ、「融資」「預金」して「利息」を稼ぐようになる。これらの原資の大半は民業から徴収する「税金」。他の一部は貯金・年金・保険金名目で国民から調達する「預かり金」。もう一部は国債・地方債等のカラ手形を民業に押し付けて調達する「借金」。さらには競馬・競輪・競艇・オートレース・宝くじ・サッカーくじ等の博打(ばくち)から徴収する「上納金」である。

 そこには「公共需要」と「民間需要」の見境もない。もともと民業の縄張りである自由経済市場を手当たり次第侵略して資金をかき集めた後、再び市場に投入して利ざやを稼ぐ。集めては投入、また集めては投入をなりふり構わず繰り返すうちに、「公務」の領域がどんどん拡大していった。

 第二次世界大戦で崩壊した日本経済を立て直すために、政府は「基幹産業を育成し、社会資本を整備する」という名目を掲げて次々と国策企業を強化した。都合のよいことに、わが国には公務資本の調達についても使途についても、これを規制する法律がない。そこで政府はおのれの任務の境界を知らぬまま民間需要市場に突入した。「戦争」の次の標的は「商売」というわけだ。

 まず、燃料需要に応えるために炭鉱を、電力需要に応えるために電力会社を、鉄鋼需要に応えるために製鉄所を強化した。輸送需要には国鉄・造船所・航空会社、交通需要には道路公団、住宅需要には住宅公団、通信需要には電電公社・郵便局、金融需要には銀行・金庫・信金、食糧需要には農協を強化した。さらに、教育需要には学校・大学、医療需要には病院、旅行需要には交通公社、たばこ需要には専売公社、娯楽需要には前述のギャンブルといった具合である。

 このように並べ立ててみると、「公共需要」の網をかぶせることによって、国民生活のどんな需要も、容易に政府の「商売」のネタに化けてしまうことがわかるだろう。政府は際限もなく仕事のネタを見つけ出しては次々と税金を投入して自由経済市場に拠点を作り、人脈を配置した。税金が足りなければ国債や地方債を発行して借金を積み上げてそのツケを国民に回した。政府は「国民のニーズ」を口実にして、実はおのれが食べていくための仕事を増やし続けた。

 政府が胸を張って「国民のニーズのために昨年100兆円使いました」というとき、そのうち25兆円は給料としておのれが頂戴したという点に注目しておこう。あと25兆円はおのれの借金の分割払いと金利の支払いに使ったということも記憶しておこう。さらに25兆円は新たに振り出したカラ手形である。そうすると残り25兆円の行政サービスを民業者が受けたかというと、そうではなく、公務員自身もちゃっかり民業者の横に並んで「国民」としてサービスを受けたのである。

 公務員は誰でも「自分たちは利害を超えて国民のために仕事をしている」と思っているはずだが、実情は違う。

 「仕事がなければ予算を削られる。だから絶えず新しい仕事のネタを掘り起こさねばならない。幸い、国民は意地汚いから、あれもやって欲しい、これもやって欲しいという需要は巷に溢れている」――こうして需要がありさえすれば、真っ先に「つば」をつけて公務に取り込んでしまう。民業は常に後塵を拝してやせ細るばかりだ。これでは足腰の強い民業が育つわけがない。「民業を育成する」行為が実は「民業を侵略する」行為であることを、政府も民業もしっかり認識しなければならない。  

 そこで、政府の不良行為を二点に絞って指摘しておこう。

 第一に、公務目的で集めた資金で営利行為を続けてきたという問題。「公務のために使います」と吹聴して国民から金をかき集めておきながら、実は商売(出資・投資・融資・預金)につぎ込んできたという点において「背任行為」である。第二に、営利目的で商売を行う民業の顧客を奪い続けてきたという問題。民業の縄張りを侵してきた、あるいは民業の成長を邪魔してきたという点において「営業妨害行為」である。
 

第3部 政府の「商売」を禁止する(1)

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 1月 2日(火)00時36分50秒
   前節で述べたように、民業大手のルーツをたどれば、ほとんどすべて国策企業に行き着く。鉄鋼・鉄道・造船・航空・石炭・石油・電力・ガス・通信・交通・道路・建設・建築・銀行・証券・旅行・観光・ギャンブルなど、どれを見ても食税企業から派生している。戦後55年たった今日、「へその緒」 がとれて一人立ちしている企業がどれほどあるだろうか。

 堂々と株式会社を名乗っていても、100%民間資本による企業と、政府出資・投資・融資・助成(=税金)による企業の2種類がある。後者は税金に寄生する企業で天下り人種の巣窟につき論外である。しかし、前者も経営戦略上、天下り人種を雇用したり、新規事業展開にあたって政府出資・投資・融資・助成を導入するので、いつまでたっても民業として自立できず、公務発注にぶら下がる虚弱体質のままである。10年前バブルがはじけるまでの「経済大国」 も、その正体は借金まみれの政府護送船団に乗っかった徒花(あだばな)であった。

 民業の自立がなくて、どうして本物の国民経済が築けようか。自由経済市場に公務資本を投入して民業を侵略する。この政府の誤った政策を正さねばならない。自由経済市場における政府の任務は、民業の公正な競争を支援する目的でルール(法による規制)を執行することであろう。政府は謹んで「公務」に励まねばならない。税金に寄生する身分を忘れて一人前に「商売」することは、本務を逸脱した行為、公儀を踏みにじる行為なのだ。

 本来ならば、政府のこのような放漫経営をチェックする役割を代議士諸君に担ってもらいたいのだが、彼らはみな選挙目当ての短期保身政策しか頭にない。ゆったりした気分で自宅のドラフターに向かい、悠久の歴史の潮流を読みながら新しい政府の設計図面を描いてみる――という姿勢を、総理大臣から陣笠議員までだれ一人持ち合わせていないから困ったものだ。

 金バッジをもらった。まずは年収2,400万円を確保した。議員パスももらった。議員宿舎もオフィスも秘書もあてがわれた。とりあえず身近な政党の子飼いになって、一人当たり年間4,200万円の政党助成金ももらった。あとは政党の命じるままに、勉強会や会議や講演や票田の挨拶回りで忙しく走り回っていたら、365日がアッという間に過ぎて、今年も無事に除夜の鐘を聴くことができた――これが代議士諸君の暮らしのすべてである。

 それで、あなたたち、老朽政府のどこをどう改良したの?と尋ねれば、ぜんぜん何も変わっちゃいない。今年も100兆円の金をいじくりまわしたあげく、またまた借金を増やしただけ。こうして戦後55年間、わが国の金バッジ諸君は国会の赤い絨毯の上で無駄メシを食いながら、来る年も来る年も後世に負債を転化し続けているのである。彼らが積み上げた借金がどれほど巨額なものか、あらためて述べるまでもない。

 考えてみれば、議員も役人も民業の税金から結構な給料を頂戴して貯め込んでおり、財政赤字をいくらタレ流しても、おのれの私有財産を差し押さえられる心配はない。「国民のニーズに応えるため財政支出は惜しみません」といえば聞こえはいいが、自前の金を出すわけでなし、大判振る舞いすればするほどおのれの点数稼ぎになるのだから、これほど気楽な稼業もない。このような政府の無責任行為は、結局、国家のオーナーたる民業の手で禁止しない限り、やめさせる手立てはないのだ。
 

第3部 政府の「商売」を禁止する(2)

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 1月 2日(火)00時34分38秒
   そこで、第3部では「民業侵犯禁止法案」を提案する。自由経済市場は隅から隅まで民業の縄張りである。公務資本は立ち入り禁止だ。

 これからは、民業が自力で新しい事業を興して国民生活を賄っていかねばならない。実は、筆者は新しいタイプの創業経営者を持つ企業に期待している。自己資金を工面して裸一貫から立ち上げる。一艘の小船を漕ぎ出して自由経済市場の荒波を航海する。創意と工夫と努力こそ命(いのち)。不況や失業もどこ吹く風と、新たなマーケットに挑戦する企業がどんどん増えているのは心強いことである。

「民業侵犯禁止法案」

第1条(目的)
国家生存の唯一基盤は民業にあり、民業生存の唯一基盤は自由経済市場にあるとの基本認識を踏まえ、公務資金による民業侵犯を禁止することにより民業の自立振興を図る目的で、本法を定める
第2条
公務資金はこれを直接的にも間接的にも営利法人に出資・投資して配当を得てはならない
第3条
公務資金はこれを直接的にも間接的にも営利法人に融資・預金して利息を得てはならない
第4条
公務資金はいかなる形態においてもこれを営利法人に預託してはならない
第5条
公務資金は助成金、補助金、負担金、交付金等いかなる名目においてもこれを営利法人に支出してはならない
第6条
公務目的で財やサービスを購入し、または工事等を発注する場合に限り、公務資金の営利法人への支出を認める
第7条(営利事業の定義)
設立の名目および収支状態の如何に拘わらず、事業の本質が自由経済市場に馴染むものはこれをすべて営利事業と定義し、それを営む組織を営利法人と定義する
第8条
前条において、営利事業と非営利事業との区分をめぐって紛争が生じるときは、これを裁判所の裁定に委ねるものとする
第9条
競馬、競輪、競艇、オートレース、宝くじ、サッカーくじ等の事業は自由経済市場に馴染むものであり、紛れもなく営利事業であり、公務に違反する事業である。したがって、公務資金は直接的にも間接的にもこれをこれらの事業に支出することを禁止する
第10条(公務資金運用の禁止)
およそ、資金を自由経済市場に出資・投資・融資・預金・預託して運用する行為は紛れもなく営利行為であり、公務に違反する行為である。したがって、公務資金は直接的にも間接的にもこれを自由経済市場で運用することを禁止する
第11条(公務資金間接流用の防止)
公務資金が非営利法人等を経由して間接的に営利法人に流入することを防止するため、別途会計基準を設けて、経由する法人と末端事業所の財務諸表提出を義務づけて、これを公開するものとする
第12条(公務資金調達の禁止)
貯金事業、保険事業、年金事業等の名目で自由経済市場から資金を調達する行為はその運用を前提とするものであり、第10条に違反する行為である。また結果として公務資本のシェアを拡大し、民間資本のシェアを圧縮する行為である。したがって、これらの事業を公務として行うことはこれを禁止する
第13条(同前)
公務資産を担保にして自由経済市場から資金を調達する行為は後世に負債を転嫁する行為であり、公務にあるまじき行為である。また結果として公務資本のシェアを拡大し、民間資本のシェアを圧縮する行為である。したがって、これらの行為はこれを禁止する
第14条
本法の規定に違反する法律、政令、省令、条例、規則等はこれを改正または廃止しするものとする
 

第4部 民業復権の論理(1)

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 1月 2日(火)00時29分7秒
   政府の「商売」を禁止すると、政府は公務資金を市場に投入できなくなる。営利事業に出資も投資も融資も預金もできない。援助も助成も負担も交付もできない。公務資金が自由経済市場への出口を完全にふさがれて滞留する。するとどんなことが起きるだろうか。政府は莫大な滞留資金を抱えて立ち往生する。そこに国民とマスコミの非難が集中する。政府に選択の余地はない。滞留資金は調達元に払い戻すか、減税や福祉の形で市場に返還せざるを得ない。

 政府の財政規模がアレヨアレヨと見る間に収縮する。その額(政府資本支出)およそ年間45兆円。これがそっくり民間経済にシフトする。なんのことはない、政府が牛耳っていた資金が民業の手元に戻るだけのことだ。官公発注も国債も地方債も収縮して民業発注がみるみるうちに増大する。民業が活力を取り戻す。公共事業と過大な借金に依存してきた偽物(にせもの)の景気が姿を消して、本物(ほんもの)の景気が浮上する。

 「民官サンピンの法則」も動き出す。これは新進エコノミストたちの造語で「民官3/1の法則」と書く。政府が握る金を民業が握れば3倍の働きをするという意味だ。それはそうだろう。独創力においても、進取の気性においても、自腹を切る覚悟においても、政府と民業では比べものにならない。税金でメシ食う人種と身体を張ってメシの種を追いかける人種では、物事に取り組む姿勢が根本から違うのだ。

 ここで、民業者と公務員の勢力図を見ておこう。総人口1億2,600万人、うち就業者人口6,500万人、うち民業者人口5,940万人、公務員人口560万人(国家公務員・地方公務員・特殊法人・地方公営企業準公務員)である。総人口を2分すると、民業者とその扶養家族が約1億1,500万人、公務員とその扶養家族が約1,100万人ということになる。

 稼ぐ者がいるから家族の暮らしが成り立っており、稼ぐ者がいるから国家の生計が成り立っている。国民が食べていけるのは民業者が稼いでいるからである。5,940万人の民業者が自分の家族1億1,500万人と公務員の家族1,100万人を養っている。民業が国家のオーナーたる所以(ゆえん)だ。まずこのことをしっかり記憶しておきたい。

 「公務員もちゃんと稼いで税金を払って国家の生計を支えているではないか」と、国民の誰もが思っていることだろう。ところが実は、この認識は根本的に間違っている。この国民的錯覚は民業復権を左右する重要ポイントなので、ここでチェックしておこう。一度気付いてしまえばなんでもないことである。

 第1部末尾で述べた「政府と民業の基本的な関係」をもう一度確認してみよう。「民業は自由経済市場で商売に従事して所得を稼ぎ出して国民生活を賄うとともに、税金を拠出して政府の財政を賄う。政府は預かった税金の中からおのれの食い扶持を頂戴して、残りを公共需要に振り当てる」。つまり、民業者の「稼ぎ」が国民所得のすべてである。公務員も「働いて」はいるが1円も「稼いで」はいない。民業者が与える税金を「消費」しているだけである。

 「公務員は働くべし。稼ぐべからず」――それが「公務」というものである。「公務」のために雇用した公務員が、民業の縄張りである自由経済市場にのこのこと出張って来て、税金を元手にして「商売」することはまかりならぬということである。「稼ぐな。公務に専念しろ。その代わり食い扶持は民業が与える」ということなのだ。

 民業者を主人、公務員を専業主婦に置き換えてみることもできよう。主人も妻もともに「働いて」いる。妻が働いてくれるお陰で主人は「稼ぎ」に出ることができる。主人は給料を持って帰って妻に渡し、妻はその金で家計を切り盛りする。主人が倒れたら家計は崩壊するが、妻が倒れても家計は崩壊しない。(妻の補充は困難だが公務員の補充は簡単)。
 

第4部 民業復権の論理(2)

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 1月 2日(火)00時27分15秒
   公務員の「税金」についても国民的錯覚を正しておこう。

 公務員給与の所得税・住民税は民業者給与の所得税・住民税と同じ性質のものだろうか?実は全然違う性質のもの、というより正確には「税金」ではない。民業者の所得税・住民税は国民所得に根拠を持つ「実税」だが、公務員の所得税・住民税は国民所得に根拠を持たない「虚税」である。民業が支給する公務員給与に、政府が勝手に別額を上乗せして「所得税・住民税」のレッテルを貼って天引きしているだけだ。これは「公務員も国民の一人としてきちんと税金を払っています」という体面を取り繕うためのプロパガンダなのだ。

 もともと税金というものは「稼ぐ者」から徴収するものであり、「稼がない者」からは徴収しない。それゆえ「税金から給与を支給される者」には「納税義務」を課さないのがあたりまえだ。公務に従事して国民に奉仕している公務員に対して「納税しろ」と要求するのは矛盾である。あるいは逆に「納税権」を認めないという考え方もあっていいだろう。「税金で食べさせてもらっている者が一人前の顔をして納税するとは何事だ。納税する余裕があるならその分返せ」というわけだ。(間接税は別問題)。

 これに対して、憲法30条が国民に等しく納税の義務を課しているところから、公務員にも納税義務があると主張することもできよう。だが、憲法はあくまで基本理念を規定しているのであって、具体的な施策は個々の法律に委ねており、その法律はさまざまな例外を設けているので、論拠にならない。「税金から給与を支給される者」の納税義務を正当化する法理念も今のところ確立されていない。

 ちなみに「納税する余裕があるならその分返せ」という金額をざっと見ておこう。公務員560万人×平均年収450万円×税率12%=約3兆円となる。民業が支給する公務員給与に、政府はこれほど巨額を勝手に上乗せして「所得税・住民税」のレッテルを貼って天引きしているのだ。これは明らかに過払いなので民業に返還するべき性質のものである。つまり、毎年これだけ巨額の恒久減税要素があるという事実をしっかり認識しておく必要がある。

 民業者は漁師のようなものだ。その仕事は魚を捕って来てみんなに食べさせることであり、その仕事場は自由経済市場という名の荒海である。彼はいつも危険を背負い、身体をはって魚を捕る。ある時は浮き、ある時は沈み、魚が捕れない日々が続くと、たちまち貧乏のどん底に沈む。それが自由経済市場の掟(おきて)である。この掟を良しとして民業者は今日も船を漕ぎ出すのだ。

 一方、公務員はというと、公務員給与法と人事院勧告だけが食べていく唯一の根拠。法律によって「生活保護」を受けているのだ。それでどんな仕事をしてきたかというと、「国民のため」と称して毎年莫大な金を集めては使い、また集めては使いして民業を侵略し、途方もない巨額負債を後世に転化し続けてきた。この間、国会議員、歴代首相、大臣、次官、局長、次長、課長以下国家公務員から、地方議員、都道府県知事、市区町村長以下地方公務員に至るまで、すべての公務員は誰一人困ることなく結構な給与と退職金をありがたく頂戴して、次から次へと職務を交代してきた。

 6年前の阪神大震災で露呈した民業者と公務員の悲惨なギャップを忘れてはならない。会社、工場、事業所、商店が軒並みつぶれて、民業者とその家族は突然明日からの収入がなくなったばかりか、働き口さえ失ってしまった。ところが、同じ被災地の公務員の銀行口座には、まるで何事もなかったかのように毎月の給与が振り込まれ、盆暮れにはたっぷりボーナスも出たのである。その原資は、昨日まで健在だった民業者たちが拠出した税金だったのだ。

 政府は今や民業の「お荷物」である。民業は公務員を太らせるために税金を納める義理はない。仮に政府の財政規模を半分に減らしたところで、その分、資金が民業にシフトするだけの話。国民経済規模としては同じことで、なんの支障もない。財政規模を減らすことは、税金と借金を減らすということである。政府が使う金が減って国民が使う金が増えるということである。
 

第5部 国家のオーナーが舵を取る

 投稿者:斉藤真一メール  投稿日:2001年 1月 2日(火)00時21分2秒
   オーナーたる者の条件は、市場で商売に従事して所得を稼ぎ出して生計を賄う責任と実力を備えているかどうかであり、これは家族のオーナーでも企業のオーナーでも国家のオーナーでも同じことである。国家のオーナーたる民業の目的は経済活動に従事して国民生活を賄うことであり、その任務は商売であり、その領域は自由経済市場である。

 政府が国家のオーナーたり得ない理由は、議員も役人も法律によって「生活保護」を受ける身分であって自立収入基盤を持たず、しかもおのれが采配を振る公務資金の運営収支に対して弁償責任を負わないからである。しかるに、政府も民業も、建国以来一貫して政府がオーナーであるかのように錯覚してきた。それは何故か。互いがおのれの役割と身分について無知だったからである。

 第1部において、政府と民業の役割を曲がりなりにも区分して提示した意図はそこにある。民業というものはただ商売をしていればそれで良いものではない。公共事業にぶら下がって稼いでいればそれで良いものでもない。民業には建国以来片時も休まず国家の台所を賄ってきた実績と誇りがある。そして今も1億2,600万人を養う国家のオーナーなのだ。

 国家のオーナーたる民業が政府を監督しなければ、一体誰が監督するだろうか。議員や役人は、前述のように自立収入基盤を持たず政府に弁償責任を負わない。そもそも政府自身の構成員に政府を監督する資格はない。かといって「国民」が政府を監督できるわけでもない。いくら「主権が国民に存する」といっても、自立収入基盤を持たない乳幼児や生徒・学生や専業主婦や老人や無職者には監督する実力も手立てもない。

 では、「有権者」が政府を監督するか?確かに有権者は選挙の度に1票を投じて来た。しかし、それで政府に何を命じたか?有権者が政府に何かを命じたことは一度もない。命令権を持たない者に監督が勤まるだろうか?

 行政府というものは「公務」と称して四六時中金をかき集めたり借金して使いまくる。立法府はその一々の公務を法律で裏書きするために毎年百本前後の議案を採決する。有権者はこれら膨大な数の議案のうち何本をチェックして来たか?いくら「普通選挙を保障する」といっても、4年置き・3年置きの衆・参議員選挙なんかで議案をチェックできるものではない。せいぜい適当な政党か議員を選んで「よきに計らえ」と言うしかない。有権者は実質上いかなる監督権限も持たない「裸の王様」である。

 結局、商売に従事して国民生活を賄う民業者5,940万人が監督責任を負うほかないのだ。このような民業の役割を自覚するとき、経団連、日経連、経済同友会、日商他諸々の民業団体の責任は重い。公共投資を増やしてくれとか不良債権を放棄してくれとか言って、いつまでも政府に依存しているようでは民業の自立も繁栄もないと知るべきである。 

 自由経済市場は民業がそこで商売を競う世界共有の舞台である。創意と工夫と努力によって無から有を生み出す場所、付加価値を生み出す場所、所得を生み出す場所、商いをする場所、稼ぐ場所、食べていく場所である。民業はそこに身銭を投入し、リスクを賭けて競争する。そうして国民生活を賄っていくのだ。

 世界の動向を眺めれば、ソ連が崩壊し、ベルリンの壁が崩壊し、東独も中国もポーランドもユーゴもベトナムもキューバも自由経済市場に向けて舵をとる。固定した体制やイデオロギーが次々と悠久の歴史の流れに呑み込まれていく。もともと市場というものは不自然を嫌う。経済状況を固定しようとする者を嫌う。不当な統制や規制を拒否する。

 人の経済活動を川の流れにたとえれば、自由経済市場はさしずめ七つの海にあたるだろう。政府がいくらブロックを築いても、川の水はこれを乗り越えて大海に流れ込む。いくら公務資本を投入しても、とうてい制御しきれるものではない。自然の流れに逆らって巨大な牙城を築く者はやがて巨大な水圧に押し流されて崩壊するのだ。

 自由経済市場においては、民族も国家も独裁主義も共産主義も社会主義も民主主義でさえも特別待遇を受けることはない。自然の摂理に基いて資本が資本自らの論理でのびのびと活躍する世界である。インターネットが普及して情報とマネーが瞬時に世界を駆け巡り、輸送手段が発達して人と物資の移動が速くなれば、国境の壁が溶解するのも自然な成り行きである。政府の権威が低下して民業の権威が高まるのも歴史の趨勢というものだろう。

 政府が市場に介入する時代はいずれ終わりを告げる。好むと好まざるとに拘わらず、終わらざるをえない。なぜなら、それは、自由でのびのびと行われるべき経済活動にとって極めて不自然な状態であるからだ。その昔、民業は政府を必要としなかったが、今また政府は民業の「お荷物」になってきた。重い荷物を軽くする時期が来たのである。
 

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